ギャンブル好きを競輪派と競馬派に分けるとすれば、この作家は人間くさい競輪派である。「夢は枯れ野を―競輪躁鬱旅行」を読んで、そう思ったことがある。なぜか「悲しみ」を背負って生きている翳を感じさせる。それが、女優の夏目雅子、篠ひろ子といった当世の美人が吸い寄せられるこの作家の魅力なのだろう。
「白い声」を読み始めて、主人公の野嶋郷一が伊集院静と重なり合う部分があるように見えたのは、私だけではないと思う。自堕落な日々を送る作家の野嶋に、次々と女性がとりこになっていく。その一人が清純な牧野玲奈。神を憎む野嶋と敬虔なカソリック信者の両極端の二人が巡り合い、すれ違い、そして絡まり合い、純粋な愛を紡いでいく。それにしても、その対比の強調があまりにも単純で明確すぎる。邪悪と清純、中年と乙女、信仰と憎悪。運命的な出会いがどうしても不自然な感じがしてならない。
オビに二つの言葉が踊る。上巻は「極上の恋愛小説」、下巻は「究極の恋愛小説」。極上と究極。どちらが上か下か分からないが、料理のほめ言葉のようで、いささかしっくりこない。男と女がいる限り、恋することは永遠のテーマである、伊集院はいう。小説家にとって「恋愛小説」は、まさに永遠のテーマであろう。しかし、この恋愛小説「白い声」は、のどに小さなトゲが引っ掛かっているような違和感がぬぐえない。それが何なのか。恋愛というより、「単に玲奈が野嶋に恋した物語」というのはちょっと“邪悪”な言い方だろうか。
それでも、下巻の野嶋と玲奈のスペイン逃避行の場面は、吸い寄せられるように読んだ。この作家の透き通った文章が生きている。サンティアゴ・デ・コンポステーラを目指し、星の巡礼街道を行く二人と自然の描写は、それまでの違和感を帳消しにして余りある。巡礼街道で、作者不詳の石像が野嶋の心を癒す。「スペインに来て、シロス村で見た石像から、何か灯りに似たものが見えはじめた。あの石像を作ったのは名も無い石工だ。なぜ、あんなに純粋な表情を千年も前の石工が彫り上げられたのだろうか、と考えた」。名もなき美しきものに心を寄せる、この作家の心情が吐露されているように思える。
この恋愛小説を読む終えると、伊集院静の競輪ものが無償に読みたくなった。
|