ふと、何もかもイヤになるというか、何もしたくなくなる時がある。多かれ少なかれ、こんな思いになる人は結構いるのではないか。何のために生きているのだろうか、こんな仕事をしてどうなるというのか、と。哲学的といえば哲学的だが、いいようのない「裂け目」に落ち込んだ気持ちになる。
こんな時、街の中の喫茶店で一人コーヒーを飲む。窓辺から道行く人を、茫然と眺めている自分に気付くことがある。五十歳を過ぎて、そんな時間が増えたように思う。
しばし時を忘れた後、ひも解いたのがこの本である。
大学時代の友人で精神科医になった二人が、精神医療から社会、歴史まで問いを重ねる対話形式で「宗教とは何か」を考えていく。副題が「宗教をめぐる精神科医の対話」。なだ氏が問いかけ、友人が応える形で、さまざまな問題点を解きほぐしていく。
友人は「習慣からキリスト教信者になった」と言う。信者のなり方にもいろいろある。カトリックのように古い宗教では「生まれた時からカトリック」という信者は多い。安岡章太郎らの「我等なぜキリスト教徒になりし乎」には、奥さんと娘さんが洗礼を受けることになったので一緒に入信することにした、と動機を語っている。私もキリスト教の洗礼を受けているが、家族にせがまれての口である。信者で一番多いのが習慣で信仰に入る、その次が折伏されて入る、だそうだ。
ところで、さすが精神科医といおうか。世界三大宗教の始祖、キリスト、ブッダ、ムハンマドの三人は集団的精神療法家だったと結論付ける。宗教とは、孤独から人間を救い出し、一つにまとめるための原理。唯一神はそのために創り出された、というのである。集まるところがほっとする。今の流行では癒しだ。一種の酔いともいえる。人間を孤独の不安から救う。孤独こそが現世の地獄。人間はわれわれと呼べる仲間がほしい。そこで宗教に向かう―こう説く友人の話は、それなりに説得力がある。ただ、あくまで精神科医から見た宗教観である。
カトリック信者だったパスカルは「信仰は賭けだ」と言った。「とりあえずひざまずいて祈れ。祈っていれば次第に信仰が生まれてくる」とも言った、と紹介している。信仰はそんなものだろう。別に神を冒涜するつもりはない。なにしろ、私自身もキリスト教の信者なのだから。
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