昨年夏、アフリカのケニアに行った。サバンナの平原が360度も広がる奥地まで出かけ、マサイ族の生活に触れた。牛を飼いながらサバンナを遊牧する伝統的な生活様式を守り続けるマサイ族は、文明とはほど遠い暮らしをしている。住まいにも入れてもらった。草木の骨組みに牛糞と泥を練って塗った小さな小屋だ。部屋は台所、居間、ベッドの三つに仕切られている。合わせて十畳くらいだろうか。電気はないのだから、もちろん電気製品はない。衣装を納める入れ物もない。家具といえば居間にある木の食卓ぐらい。まさにシンプルライフそのものである。
高度成長期の大量生産、大量消費に毒された身には、「目からウロコ」だった。帰って見ると、「不況にあえぐ」わが日本は、何と物があふれ返っていることか。物価が安くなることはいいことだと思っていたが、そうではないとようだ。経済政策はデフレ対策に懸命だ。「消費を拡大しないと景気はよくならない」と物を買うよう呼び掛ける。大量消費でしか支えられない社会の仕組みを変えないことには、世の中どうにもならないと実感した。
こうした時代に、ふと目にしたのがこの本だ。「収入の少なきことを嘆くよりは空の青さに喜び暮らしたいとお考えの貴方ならば、きっと本当の貧乏を、お金は乏しくとも人間でありたいという最低限の思いを、わかっていただけると願っている」。単純明快に「貧乏は楽しい」と、会社を辞めて筑波山麓で貧乏の実践に入っている28歳の著者は言う。
お金やモノがないということを、世間的には「貧乏」というのだろう。ところが、ご飯は土鍋で炊く、サンマを七輪でもうもうと煙らせながら焼く、納豆は手作り、肉は塩漬けにして保存…安い材料でいかにおいしく食事をするか、この本には創意工夫する喜びがあふれている。第一、七輪で旬のサンマを焼いて食うほど「ぜいたく」があろうか。貧乏こそ人間としての自由と尊厳が保たれる、と同感する。
はっとしたのは、「百円ショップの大罪」である。何でも百円で買えるから、「百円ショップこそは貧乏人の救世主」と思ったら、最も醜悪な消費だと言うのである。「どこから見たって『ゴミ』でしかない物にすがることでしか消費の快楽に身を置けなくなってしまったのだ」と手厳しい。
穏やかで、つつましくて、四季を楽しむ心豊かさが取り得だった日本が、モノがあふれ返ってその良さをどこかに捨ててしまったようだ。「貧乏神髄」はモノでしか満足できない大量消費時代や拝金主義への、鋭い批判になっていて痛快である。
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