12歳の子どもが、4歳の幼児を誘拐して殺した事件。小66年生の女の子4人が、渋谷で監禁され、加害者が自殺した事件。「未熟」とみられる子どもたちの事件が、社会の「不安」をかきたてているように思える。
戦後、日本は「豊かさ」を求めて努力をしてきたのは確かである。監修者の白幡洋三郎は、「豊かさ」が手に入った故のぜいたくな「不安」なのか、それとも「豊かさ」の目標が誤っていたために生まれた自業自得の「不安」なのか。はたまた真の「豊かさ」にまだ到達できないもどかしさや未熟ゆえの「不安」なのか、はっきりしない、とまえがきで述べている。
いったい社会は「成熟」しているのか。「成熟」とは何だろう。白幡のほかに、哲学者の鷲田清一、情報人類学の奥野卓司、人類学の山極寿一、モンゴル研究の小長谷有紀という異なる分野の専門家が意見を闘わす。5人の座談会はなかなか興味ある内容になっている。
奥野は、「人が未熟でも生きられるというのは、その社会は成熟しているということだ」「昔は『自由』と言わなければならない必然性があった。けれども、今ではその分『自由』のストレスがある。選択肢がふえてみんな自由になった。選択肢がふえてみんな自由になったかというと、反対かもしれない」という。
私はいわゆる「団塊世代」。戦後のまだ貧しい時代に育ったが、「物が乏しかったからこそ、子どもたちは目標を持って、目を輝かしていた。物があふれて、かえって心が貧しくなった」と当時を振り返っていた。だが、この本を読んで、必ずしもそんな単純なことではないと、考え込んでいる。
物質的に恵まれた状況下で生まれ、親の庇護(ひご)のもと、未熟であっても生きられる状況。かつての親と子の葛藤は少なくなって「平和でちょっといい家族」が増えている。人との関係を淡白にし、自分の殻の中、仲間だけの小さな世界で満足する若者を増やしている。日本人は今、何を目指せばいいのか。疑問は次から次へと生じてくる。
その中で、「潮時」「塩梅を知る」が一つのキーワードになるのではないか。柔軟な想像力が減少している。どうすればそれを取り戻すことができるのか。いろいろ想像してみたい。
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