本書の第一部「私のシベリア」が出版されたのは1970年。当時はまだ駆け出しのルポライターだった立花隆が、山口県三隅町の香月泰男宅に10日間通って、ワインを飲みながら聞き書きしたものである。香月の戦争体験を通して、何を考え、シベリア・シリーズの絵がどのように描かれたかを克明にたどっている。
立花はいわゆるゴーストライターで、香月の名前で出版された。それから34年後に改めて出版された本書は、「私のシベリア」の復刻に、立花自身のシベリア調査報告を加えた。
この本に、立花が強調しているのは、「図録を見て感動したとしても、実物を見ないうちは、本当の意味でシベリア・シリーズを見たことにはならない」ということである。
なぜなら、「香月さんの絵が本質的に三次元的であるため、二次元の平面図版にはどうしても全情報を移しきれない」と立花はいう。
ならば、実物の絵を見ずしての書評もナンセンスと、広島から2時間半、車を飛ばして三隅町の香月美術館を訪ねた。香月のシベリア・シリーズ57点は山口市にある山口県立美術館に全てあるが、やはり香月の原点である三隅町を見ることが大事と思った。小さな美術館には、習作、スケッチ、デッサンなどや香月が死ぬまで使用していたアトリエがそっくりそのまま移築されていた。
「指導者という者を一切信用しない。人間が人間に対して殺し合いを命じるような組織の上に立つ人間を断じて認めない。戦争を認め合う人間を私は許さない」
立花が引き出した香月のこの言葉は、香月のシベリア・シリーズを見ていると心に響いてくる。香月美術館で実物の絵を見て、立花の言う通りだと思った。
一つ付け加えておきたいのは、当時、広大なシベリアはまさに「収容所群島」で、強制労働にかりたてられた囚人が1、000万人いたということである。うち700万人がソ連人、次にドイツ軍の捕虜が240万人、それにプラスして日本人捕虜が60万人いた。これがスターリン時代の実情だ。立花はシベリア抑留が日本兵だけの苦しみではなかった、と指摘する。
香月はもうこれで終わりにすると何度もいいながら、結局、死ぬまでシベリアを描き続けることになった。語っても語っても語り尽くせないシベリア体験があったのである。それだけ香月の思いが凝縮されている。シベリア・シリーズの絵が、見つめれば見つめるほど深みがあるのは当然だろう。
|