本年度・上半期の芥川賞受賞作である。「単なる風俗小説」(石原慎太郎)、「あまりにも陳腐で大時代的な表現」(宮本輝)といった手厳しい評がある半面、「久しぶりに人生という言葉を文学の中に見出し、高揚した」(高木のぶ子)、「書きたいという意欲がある」(池澤夏樹)という積極的な評があるなど、評価の大きく分かれた作品である。
常々、最近の芥川賞にげんなりしていた筆者のような身にはこの作品は「やはり文学っていいな」と思わされた。昨年度・下半期の受賞作「乳と卵」を引っ張り出してみてその思いはいっそう強まった。独特の文体で豊胸手術をめぐって、母娘、叔母、三人の女性を描いた「乳と卵」は、技巧的には優れた作品かもしれない。しかし、そうした作品に日本の文学の衰退しか感じない読者も多いのではなかろうか。
この点、中国の天安門事件をテーマにした「時が滲む朝」は読みやすかった。確かに政治の非情さがきちんと捉えられていない、これほどの大きなテーマを短編で片付けられてはたまらない、主人公の粱浩遠が日本に来てからの生活が描かれていない、など欠点はいくつもある。それでも浩遠の中国での大学生活、幼いともいえる民主化運動とのかかわりなどは、団塊世代の筆者には、ある種のほろ苦さをもって迫ってきた。
同世代の友人と話していて、「『時が滲む朝』を読んでいて『されど われらが日々』を思い浮かべた」と言われたのには驚いた。筆者もまったく同じことを思ったからだ。『されど われらが日々』の時代背景と、天安門事件で挫折する中国の民主化運動が直感的に同質のもののように感じられたからだろう。もちろん、それは時代背景といったムード的なことだけの話である。
「単なる風俗小説」と言われればそれまでである。しかし、読者が登場人物に共感や反発を抱かない小説が果たして文学と言えるのだろうか。『時が滲む朝』は、そんな根源的なことまで問いかける中国人作家の日本語での作品である。 |