硬い書名でなんとなくとっつきにくいが、読み出すと「へー」の連続。真の対談とはこんなものなのだということを教えられる。題名の「明治メディア」についてだけでなく、明治を生み出した「江戸のメディア」についても興味のつきない話題が次々と繰り出される。教養本としても、肩のこらない専門書としてもおすすめだ。
もともとはエッソ・スタンダード石油広報部が出していたPR誌「エナジー対話」第13号(1979年4月)に収録された加藤秀俊さんと故・前田愛さん(1987年没)の対談だと知ると、本書の性格が分かるような気がする。対談は1980年に中央公論社から単行本として出版され、83年には中公文庫にも収められた。その後、永く絶版となっていたのを昨年末、河出書房新社が新装復刊した。
対談者の加藤、前田の二人とも大変な博学だ。こんな碩学が対談すると話はこれほどまで広く、深く、飛躍して行くものなのかと目が覚める思いがする。一つの話題をめぐり、二人が触発し合いながら話は自由自在に展開する。それでいて主題から外れることはない。これには対談を仕掛けた編集者の高田宏さんの力も大きいという。
例えば「耳と目の間で」と題した1章。木版と活版を取り上げ、木版印刷の時代は、江戸時代の人情本、談義本にしても「話し言葉を文字にし、それがそのまま音声に復元できるスタイルが多い」と指摘。明治初期の新聞も「中外新聞」や「江湖新聞」は、記事の入稿にしたがって彫り師が版木を彫るスタイルだから「全体としての秩序はない。いわば大福帳システム」とし、話し言葉を文字化した江戸文化の延長線上にあるという。
これに対し、日本最初の活版印刷の「横浜毎日新聞」は、紙面を最初から「両替相場」「米飛脚船出入日限」「西洋新聞」などとカテゴリー化し、全体が一目で見渡せるようにしている。それまで日本人が経験したことのなかった世界の見方であり、いわば複式帳簿システムを連想させるという。さらに、活字の差し替えが不可能な木版から、差し替え可能な活版への転移には「思想的な大飛躍がある」とリースマンの言葉を引用しながら、「これは音声が消え、視覚の優位性への移行である」と説く。
「メディア」をテーマにしながらも話題は、江戸から明治へ、地方と中央、西洋と日本を行ったり来たりしながら尽きることはない。元来、メディアとは人間の表現様式をすべてさす言葉である。新聞、雑誌はいうに及ばず、広告、カルタ、双六、地図、建築…。加藤さんは、まえがきで「この書物は、いわば明治文化史を思いつくままに語ったもの、(中略)、明治の民衆像を描こうとしたもの」と述べている。人によっては「雑学」というかも知れないが、本物の教養の深さを思い知らされる本である。 |