広島市に本社を置く中国新聞社は、「原爆平和問題」と共に「中国山地」と「瀬戸内海」が3本柱のテーマになる。中国山地については2、30年単位で取材班を組み、長期連載をしてきた。取材班を組んでルポした「中国山地」、「新中国山地」、「中国山地 明日へのシナリオ」である。
筆者は、その「新中国山地」の取材班リーダーである。43歳の時だった。それから55歳で新聞社を退職。地元の私大教授になったが、根は新聞記者である。2年前に大学を辞め、再びかつての取材地を訪ね歩いた。ライフワークである中国山地を体が動くうちに記録しておきたい、という思いがこの本に込められている。
再訪は「新中国山地」でお世話になった人たちを中心に、およそ30年の足取りをたどった。「過疎の原点」と呼ばれ、過疎と闘い続けた島根県匹見町(現益田市)奥出雲地方に長く君臨した田部、桜井、絲原の「出雲御三家」のその後。三次・庄原北部地域や芸北地域の模索…。バブル経済とその崩壊によって中国山地の暮らしは、負の連鎖の速度を速めていた。
「われわれは『核家族』を理想の生活形態として選び、『消費は美徳』を実践してきた。その結果、過疎化、少子高齢化はとめどもなく進み、農地や山林の荒廃という現実から目をそむけてきた。そして2011年の流行語になった『絆』という言葉が象徴するように、共同体の再確認、さらには里山の再発見に見られるような自然のサイクルを大事にする暮らしへの転換に気づいた。見方を変えれば、効率主義、便利至上主義で置き去りにされた共同体的暮らしへの回帰である」
筆者は終章でこう記す。筆者は山里に生まれ育ち、現在も山里で米づくりをしている。それだけに、幾多の試練に直面しながらも、山ひだや谷筋に連綿と続く人々の営みに注ぐまなざしは暖かい。そして、江津市桜江町で桑茶生産に乗り出したIターン夫婦、匹見町のワサビ栽培の青年、島根県川本町に開業した古書販売店など、新しい生き方や新たな挑戦にエールをおくる。
70歳で書き上げたライフワークの「伝言」は、次に中国山地をルポする記者たちへの「遺言」のようにも思える。そして、現場を長い間見てきた筆者の言葉は、鋭い文明批評にもなっている。
|