「献身」は、インターネットの百科事典ウィキペディアによれば、「キリスト教で牧師や伝道師や宣教師など、直接教会や宣教団体の働きに携わること」「キリスト教の主にプロテスタントでは、あるクリスチャンが献身を決意してから、それを公に表明して、所属教会の推薦を受けて神学校に行くこと」とある。
このコラム欄の「7年遅れ」で、息子が東京の教会に献身したことを書いた。1年4カ月前に献身し、風の便りでは“牧師の卵”として元気にやっているとのことである。息子のことに関しては、いまのところ平安である。
そして、今度は娘が献身することになった。ただ今、準備中で近々東京に向けて発つことになる。1男1女の子ども2人とも、牧師の道を目指すことになるとは…。
娘は高校、大学も地元で、31年間一緒に暮らしてきた。世の例に漏れず、娘にはやたらと甘い父親で、妻から「父親が甘やかすから、娘がわがままになってしまった」といつもしかられている。なぜか気が合って、わが家に娘がいてくれたことで、どれだけ慰めになったことか、と思う。
それだけに、献身するとなると、教会の子になってしまう。娘を嫁にやる親の気持ちを今、味わっている。寂しさは、娘がいなくなってからじわじわとこみ上げてくるのだろう。夫婦げんかの仲立ちをしてくれた娘がいなくなる、と思うと後が思いやられる。
教会関係者以外の人からは、「老後は?」「跡取りがいなくなるのでは」などと驚く声も伝わってくる。信仰は世の人から見ると、信じられないことばかりかもしれない。だが、混沌とした世界、こうした生き方もいいのではないか。赤ん坊のときからのクリスチャンである息子と娘の伝道の道を、お祈りするばかりである。
人生、最後は夫婦2人。けんかをしないで、ポレポレ(ゆっくり)と生きていくしかない。それにしても、お酒を浴びるほど飲みたい気分である。こんなことを考える輩は、とても献身なんてできない、ということか。 |