先日、春の叙勲が発表された。全国で4099人が受章する。さまざまな分野で顕著な功績を挙げた方、長年にわたり公共的な業務に従事された方が対象になっている。
最高位の桐花大綬章は羽田孜元首相。そのほかに旭日章、瑞宝章とあり、それぞれ大綬章、中授章、重光章、小授章、双光章、単光章と分かれている。2003年から「勲一等」「勲三等」などと数字によるランクづけはなくなった。人間の一生を等級に分けて評価するのはおかしい、という理由からだ。しかし、れっきとして順位はある。
たまたま知り合いが受章し、正装をして授賞式に参列する。世のために尽くされた方が叙勲を受けるのだから、おめでたいことである。ただ、ネットで調べてみると、叙勲を断った人も結構いる。もらった人よりも、断った人が私には魅力的に見える。
ノーベル賞を受賞した作家の大江健三郎は「民主主義にまさる権威と価値観を認めない」と文化勲章そのものを否定して、受賞を拒否した。ほかにも文豪の森鴎外、国鉄総裁だった石田礼助、陶芸家の河井寛次郎、政治家の浅沼稲次郎らが知られている。
財界人の中山素平さんは「人の値打ちを役所に決めてもらうのはたまらん」と言ったという。作家の城山三郎さんは「読者とお前と子供たち、それこそおれの勲章だ。それ以上のものは要らない」。アサヒビールを再興させた樋口広太郎さんは「私は勲章をもらうほど偉くありません」。いずれもカッコいい辞退の弁である。
叙勲名簿を見ると、政治家や役所のお偉方だった人がやたらと多い。「官尊民卑」との指摘もある。日本は昔から「お上」をありがたがる。「お上の言うことは従え、ありがたく思え」という考えの延長線にあるように思えてならないのである。
ジャーナリストにとっては、叙勲はどうでもいいものだ。権力を批判してきた立場の人が受章しては、自己矛盾を起こしてしまう。叙勲を受ける人は少なくともジャーナリストとは言ってほしくない。こんなことを書くと、「勲章をもらえないからひがんでいるのだろう」と思われるかもしれない。確かに、はなから勲章の対象ではないだろう。それがジャーナリストの「勲章」である。
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